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はじめに:医療経営を直撃する人件費高騰の波
近年、医療機関の経営は人件費の高騰という大きな経営課題に直面しています。物価高や人手不足が続くなかで、医療従事者の賃金をどう守り、どう引き上げていくかは、多くの医療機関にとって大きなテーマです。この背景には、民間企業従業員の給与と国家公務員の給与水準を均衡させる考え方(民間準拠)を基本とする人事院勧告の大きな伸びがあります。
過去約20年間、この給与勧告は0%台で推移してきましたが、状況は一変しました。令和6年度には、2.76%まで跳ね上がり、さらに直近の令和7年度の発表では3.62%と、非常に高い伸び率を記録しています。給与水準が民間の水準と同等に上がること自体は好ましい変化ですが、これに伴う収入が十分に確保できていない病院にとって、給与勧告に沿った給与水準を維持することは経営状況の悪化を招く大きな要因となっています。
特に公立病院は給与勧告に準拠する傾向が高く、「収入がそこまで増えていないのに、人件費だけは確実に上げないといけない」という、かなり重たい経営課題としてのしかかっています。民間病院の場合、必ずしも給与勧告どおりに改定する義務はありませんが、同じ地域で公立病院の給与だけが上がれば、人材流出のリスクは当然高まります。そのため、民間病院でもある程度追随せざるを得ず、結果として「病院全体として人件費負担がじわじわ重くなっている」という状況が生まれています。こうした状況下で、医療機関の職員の処遇改善を目的として導入されたのが、「看護職員処遇改善評価料」と「ベースアップ評価料」という2つの評価料です。
本記事では、
- 制度の概要
- 届出の状況と賃金改善の実態
- なぜ届出を見送る医療機関があるのか
- 今後の診療報酬改定に向けたポイント
を整理しながら、医療現場にとっての意味を考えていきます。
動画も配信していますので、よろしければご覧ください。
【出典】
中央社会保険医療協議会 診療報酬調査専門組織(入院・外来医療等の調査・評価分科会)
令和7年度 第9回、令和7年8月21日[木]
資料:1.賃上げ・処遇改善(その1)
https://www.mhlw.go.jp/content/12404000/001544342.pdf
処遇改善策の概要:2つの評価料
医療機関における職員の賃金水準を引き上げ、安定した運営を支援するために、現在2種類の評価料が設定されています。

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看護職員処遇改善評価料(令和4年度創設)
この評価料は、コロナ禍の影響を受け、令和4年10月に新設されました。制度としては、看護職員の賃金を3%程度(おおむね月1万2000円程度)引き上げるために必要な額を、医療機関ごとに計算し、診療報酬として算定できるようにしたものです。ただし、1万2000円相当をすべて看護職員に充てている病院もあれば、計算の構造上、看護職員以外にも配分されるような形になっている病院もあり得ます。その場合、看護職員1人あたりの月平均が必ずしも1万2000円にならない可能性があります。
施設基準としては、救急医療管理加算の届出医療機関で、年間の救急搬送件数が200台以上であることなど、対象医療機関が限定されています。そのため、対象となる病院のみが届出できる制度になっています。
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ベースアップ評価料(令和6年度創設)
近年続いている物価高と給与上昇の状況に対応し、医療機関が賃金改善を行えるよう、令和6年度の診療報酬改定で新設されたのがベースアップ評価料(入院ベースアップ評価、外来ベースアップ評価)です。こちらは基本的に、保険医療機関の多くが対象となり、届出するかどうかを各医療機関が判断する形です。算定区分の決定方法としては、対象職員(事務職員や医師・歯科医師等は除く)の給与が令和5年度に対して2.3%引き上がるように計算され、その分の収入が入るよう設計されています。そして、届出をしている病院は、診療報酬で得た分を必ず対象職種に給与として支払わなければならない設定です。そのため、届出を行った医療機関では対象職種の給与水準が2.3%以上上がっていると考えられます。
この評価料による賃金改善は、すでに先行している看護職員処遇改善評価料による改善とは別枠で設定されており、看護職員処遇改善評価料を得ている状態から、さらに2.3%以上引き上げるという考え方に基づいています。
ベースアップ評価料の届出状況と実態
ベースアップ評価料は、多くの医療機関が対象となる一方で、届出の有無によって職員の賃金改善に差が生じています。ここでは調査結果をもとに、設置母体別・病床規模別の傾向を整理します。
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設置母体別の届出状況
届出を行っている医療機関と、行っていない医療機関を設置母体別に見ると、いくつかの特徴が見られます。

公立病院の動向:個人的には驚いたのは、給与勧告に準拠する傾向にある公立病院においても、届出をしていない割合が一定数存在している点です。給与勧告通りに賃上げせず評価料も申請しないのか、賃上げしても評価料を申請しないのか、このグラフからは届出をしていない理由は読み取れません。それでも、少なくとも「給与水準を上げざるを得ない立場にある公立病院でさえ、ベースアップ評価料の届出を見送っている例がある」という事実は、制度の運用上の課題を象徴していると言えます。
民間病院の動向:民間病院では、届け出ている医療機関が多数派ではあるものの、「届出なし」のグループにも一定数含まれているという結果でした。 医療法人などの民間病院は、給与勧告に必ずしも準拠する義務がないため、届出をしていない機関が存在することは不思議ではありませんが、看護師の給与引き上げに設置母体別の「温度差」が出ている可能性はあります。
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許可病床数別の届出状況
届出を行っていない医療機関全体(分母348)のうち、許可病床数が100床未満(99床以下)の病院が約60%近くを占めているという状況が特に目立っています。また、小規模病院であるほど、ベースアップ評価料の届出を見送っている傾向が強いという結果でした。

届出病院の賃金改善計画の詳細
ここからは、ベースアップ評価料を届け出ている病院の賃金改善計画についてです。ベースアップ評価料を届け出ている病院が、実際にどの程度の賃金改善を計画しているのかが示されています。
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賃金改善率の全体像
ベースアップ評価料は2.3%で設計されていますが、令和7年3月時点の集計(計画値)では、中央値として全医療機関で2.5%、病院単体でも2.5%という数値が示されており、2.3%を少し上回る水準で計画されている状況です。

さらに、令和7年6月30日時点の集計(加重平均)では、令和5年度から令和6年度にかけて全医療機関で2.69%、病院単体で2.7%増加する計画となっており、令和5年度から令和7年度までの2年合計の計画値として、全体で3.4%、病院単体で3.43%という水準が示されています。

(なお、前述の通り、看護職員処遇改善評価は令和4年10月から既に始まっている制度ですので、これらの2.5%等の数字からは除外されています。つまり、処遇改善評価を得ている状態から、さらに2.3%以上上げていく考え方がベースアップ評価です。)
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職種別の賃金改善計画
こちらの表はベースアップ評価料による賃上げ比率を、看護職員・薬剤師・看護補助者の職種別で見た計画値です。(令和5年度から令和7年度の2年間の合計)
最も賃金改善率が高かったのは看護補助者で、4.21%となっています。「看護補助者の処遇を相対的に厚くし、人材確保・定着を図ろうとしている医療機関が多い可能性」が読み取れます。

届け出を見送る理由と現状の課題
多くの病院が職員の処遇改善を進めている一方で、依然として届出を見送っている医療機関も多く存在します。なぜ、対象になり得るにもかかわらず、ベースアップ評価料の届出を見送っている病院が一定数存在するのでしょうか。その理由を尋ねたアンケート結果からは、制度が抱える課題が見えてきます。

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圧倒的に多かった理由:事務手続きの煩雑さ
最も多かった理由は、「届出内容が煩雑なため」であり、実に55.3%と過半数以上を占めています。ベースアップ評価料の届出には、まず賃金改善計画書を作成しなくてはならず、その様式には多くの情報を含める必要があり複雑です。さらに、提出後も8月には賃金改善実績報告書を提出するルールとなっており、これもまた複雑な計算を経て作成・提出しなければなりません。また、区分に変更がないかを3ヶ月に1回確認する必要があるなど、手続き全体が「煩雑」と感じられる内容が多くなっています。
この手続きを担う事務職員は、皮肉にもベースアップ評価料の対象外職種です。公立病院などでは給与勧告により事務職の給与も改善されている可能性はありますが、ベースアップ評価料の恩恵がない中で煩雑な業務負担を強いられることが、届出を躊躇する一因となっている可能性も考えられます。
(↓計画書と報告書の項目を見ていただくと、複雑さが感じられるかと思います…)

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制度の継続性に対する不安
次に多かった理由は、「次回改定後もベースアップ評価料が存続するか不明なため」であり、約40%の水準に達しています。医療現場では、一度基本給や手当を引き上げてしまうと、その後、容易に引き下げることができないという実情があります。しかし、ベースアップ評価料自体は診療報酬改定のたびに見直しが入る可能性があり、もし将来的に評価料が廃止された場合、収入源が確保できなくなってしまいます。
医療機関の多くは、この収入が途絶えるリスクを回避するために、基本給ではなく「手当」としてベースアップ分を支払い、「ベースアップ評価料がある限りは支払い続ける」という設定にしているケースが多いと考えられます。これにより、もし評価料が廃止された際には、手当という形で調整がしやすいように後戻りできる余地を残す対応をとっているのです。
この評価料は、令和8年度(2026年度)の診療報酬改定においても、さらに引き上げられるよう議論が進んでいるため、すぐに廃止される可能性は低いと見られています。しかし、長期的な制度の継続性に対する不透明さが、依然として届出をためらわせる大きな要因となっています。
まとめ:ベースアップ評価料をどう活用すべきか
最後に、ポイントを整理します。
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- 給与勧告は近年大きく上昇し、公立病院を中心に人件費の負担が急増している。
- 看護職員処遇改善評価料は救急機能など一定の要件を満たす病院に限定された評価だったが、ベースアップ評価料はより広い医療機関が対象になり得る賃金改善の仕組みとなった。
- ベースアップ評価料の届出状況は、届出をしている病院の方が多い傾向にある一方で、まだ届出を見送っている病院もある。
- 届出を見送っている理由としては、事務手続きが煩雑であること、ベースアップ評価が継続するか不安であることが大きな要因となっている。
- ベースアップ評価料の届出をしている病院では、令和5年度に対して令和6年度・令和7年度の2年で給与水準が平均で2.7%〜3.6%程度上昇する計画値が示されている。特に看護補助者は 4.21% と高い改善率が見込まれている。
- 一方で、届出を見送っている理由としては、事務手続きが煩雑であること、ベースアップ評価が継続するか不安であることが大きな要因となっている。
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制度としては、確かに「もらえるものはもらった方がいい」側面があります。
しかし、実際に運用する現場から見れば、
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- 手続きの煩雑さ
- 将来の制度変更リスク
- 対象にならない事務職の負担が大きいジレンマ
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といった、机上の制度設計だけでは見えない現実的な悩みがあります。
ここまで見ると、「やっぱり大変そうだし、うちは見送ってもいいかな……」という気持ちになるのも、正直よくわかります。ただ一方で、
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- 物価高・人件費高騰の流れは今後もしばらく続く可能性が高い。
- 他院がベースアップ評価料を活用して賃金を引き上げれば、人材確保の面で差がつく。
- 国が「賃金改善のために用意している枠組み」を使わないのは、長期的に見ると不利になり得る。
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という現実もあります。
ベースアップ評価料の動向は、次期令和8年度の診療報酬改定における大きな目玉の一つとなることは確実です。個人的には、現時点で令和8年度でベースアップ評価料が完全に廃止される可能性は低いと見ています。ただ、長期的な制度の見通しについては、やはりまだ不透明な部分が残ります。今後も制度の継続と改善に向けた議論が注目されます。
現状では、
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- 自院の経営状況
- 人件費の構造
- 人材確保の課題感
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を丁寧に見直したうえで、「どこまで評価料を活用し、どのように賃金に反映させるのか」を戦略的に考えていくことが重要だと考えます。

